2016年2月1日月曜日

葬祭やら宗教やら

同僚や親族の葬儀、法事に出ていつも感じることだけど、自分より若いのに立派に喪主の役目を果たしたり、参列者や親族の接待で細かな気配りができたり、親族代表として立派な挨拶をしたり、本当にみんな偉いなと感心してしまう。自分の親に何かあったとき、あんな挨拶や気配りが出来るのかな?と考えてしまう。どんな挨拶をするのか、どんな流れで式が進んでいくのか、最近は後学の知識として覚えようとする視点で参列することが多くなってきた。

かつては葬祭でのマナーを一切知らず、とある世界の影響で合掌も焼香もドキドキだった。こんな行為に何の意味があるのかと反発し、どこか仏式の葬祭を小馬鹿にしている自分がいた。そんなことしなくても死者を悼む気持ちがあればいいじゃないか、その気持ちは仏式じゃなくても伝わるだろうに・・・そんなふうに考えていた時代があった。

しかし、そうじゃなかった。
葬祭において「死者を悼むこと」も大切だけど、一番は「遺族を慰めること」にあると思う。故人のために親族や友人知人たちが集うことはもちろん、遺族が望む方法で死者を送ってあげるのも大切なのだと思う。それがどんな宗派であろうと関係ない。そして、遺族に「今日は来てくれてありがとう」と言われることが遺族を慰めた証であり、式に参列する最大の理由であると思う。

仏教には一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・と死後も法要が続く。これを「坊主の稼ぎのため」と言ってしまえばそれまでだけど、節目の年毎に皆が集うことで親族の絆を強めたり、遺族の悲しみや孤独感を和らげる意味もあると知って私も見方を変えた。最近は坊さん抜きの法事、つまり親族だけの食事会で終わらせる法事の話も聞くようになった。わたしはそれも有りだと思うし時代の流れだと思う。

とある世界を飛び出て13年目。
今では躊躇なく合掌も焼香もできるようになったし、冠婚葬祭でのマナーにも詳しくなった。海外旅行先でも仏教の寺院やイスラム教のモスク、キリスト教の教会にも躊躇なく合掌する自分がいる。それはそこで崇拝されている神々に対するものというより、多くの純粋な信者たちによって大切に護られてきた崇拝対象者への畏敬の念である。本当に神がいるとかそんなことは知らない。確かめようもない。ただ、何百年・何千年と人々が崇拝してきた行為が報われて欲しいと思うし、その純粋さや熱心さには敬意を払いたいと思う。

自分たちの崇拝方式以外は認めない、自分たちの神以外は存在しない、自分たちの宗教以外は邪教・・・そんな心の狭さが家族や親族の絆を壊し、世界に争いを生んでいる。自分の元いた世界も、もう少し他の宗教に寛容であったなら世間の評価も大きく違っていたであろうにと残念に思う。