2016年11月11日金曜日

やがて訪れる日のために…

ここ数年、親を亡くした元JWの友人・知人の話を聞くことが増えた。いずれも残された現役親と葬儀の方法をめぐって衝突したり、葬儀について口を挟んできた長老との衝突、現役親と親族との板挟みになった苦悩など、同じ元JWとして切なくなる話が多過ぎる。

先日聞いた話も、若くしてガンで亡くなった非信者の父親を、現役家族が葬儀無し・遺骨の処理も火葬場に一任して受け取り拒否して、それを理解できない親族と衝突した話を聞いた。元JWの友人もJW流の葬儀に「遺骨くらいは埋葬してあげたかった」と苦しんでいて、宗教の残酷な一面を見た気がした。

私も死後は無であると考えるし、死ねば人はみな塵にかえると言う聖書の教えにも賛成だ。ビジネス化した仏式の葬儀や豪華な墓も無意味だと思う。しかしだからと言って、日本のJWみたいな墓参りNG、遺骨も厄介物扱いする風潮も馬鹿らしく思う。

キリストの死後、弟子たちがその亡骸を丁重に処置して墓に安置したり、キリストの死を嘆き悲しんだ人々のことを聖書は記している。もしこれが日本のJWであるなら、磔にされたキリストの亡骸処理を当局に任せ、墓に埋葬することすらしなかっただろう。埋葬したとしても、墓を訪れ花を手向けようものなら何を言われるか…

家族を亡くした遺族に必要な慰めや励ましを与えず、葬儀の手順や服装などに口出しする長老たちも大馬鹿者だ。それによって余計な負担や悩みを遺族に加え、非信者の親族たちの怒りを増幅させる。本当に情けない話だ。

家族の死くらい自由に見送らせればいいじゃないか。服装だって喪服の何が悪いのか。墓参りの何が悪いのか。それを見て他の信者が躓くのであれば、そんな脆すぎる信仰を持った信者の責任だ。逆にそんなつまらぬことで躓くな!と叱るべきではないのか。そんな脆い信仰で、自分達の信じるハルマゲドンを通過できると思っているのか。

親の死は順番だ。誰もが遅かれ早かれ経験することであり、決して他人事ではない。もしかしたら親と順番が逆になる可能性もあるけど、いずれ必ず訪れるその日のために、あれこれシミュレーションしておく必要性を痛感している…